同棲を始めた「彼女」は、少し潔癖すぎるところがあった。特にトイレ掃除は異様だった。毎晩、寝る前になると、必ずトイレに籠もり、何かに取り憑かれたように「便器」を磨いている。ゴシ、ゴシ、という硬いブラシの音が、アパートの薄い壁を通して響いてくる。
「そんなに毎日やらなくても綺麗だよ」と一度だけ言ったことがある。彼女は振り返り、青白い顔でこう言った。「ダメなの。赤黒いのが、取れないの」。俺が見ても、陶器は新品のように真っ白だった。彼女は疲れているのだと思った。
その夜、またあの音が始まった。だが、いつもと様子が違う。 「取れない……! なんで取れないの!」 半狂乱の叫び声。慌ててトイレに駆けつけると、彼女が床に座り込み、素手で「便器」を擦っていた。爪が割れ、指先から血が滲んでいる。そして、彼女が「執拗に磨く」その場所……便器の内側、水が溜まる部分の縁に、昨日まではなかったはずの、赤黒い「手形」のようなシミが浮かび上がっていた。
「ほら、見て。あなたのせいで、また『あの子』が怒ってる」 彼女は、滲んだ血で真っ赤になった自分の手をうっとりと見つめた。 その時、俺は思い出していた。この部屋の前の住人……不慮の事故で、このトイレで幼い子を亡くしたという、あの噂を。 彼女が「執拗に磨く」のは汚れではない。彼女の指先から流れ落ちた血が、まるで水に絵の具を落とすように、シミの「手形」に吸い込まれていくのを、俺はただ見ていることしかできなかった。


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