残業で終電を逃し、いつもの帰り道を歩いていた。街灯もまばらな長い一本道だ。雨上がりでもないのに、空気が妙に湿っている。そして、どこからか生暖かい風が頬を撫でていった。
その時、奇妙な音を聞いた。 「…ズ、ズズ…、ビチャ」 山側の暗闇から聞こえる。まるで、重い泥の袋を引きずるような音だ。気味が悪くなって足を速めると、音も同じ速度でついてくる。俺はたまらず走り出した。音も走り出す。家まであと少し、無我夢中で夜の道路を駆け抜けた。
アパートの自室に転がり込み、鍵を閉める。息も絶え絶えだ。安心して明かりをつけると、そこで異変に気づいた。 右腕に激しい痛みが走る。見ると、肘から手首にかけて、服が破け、大きな擦り傷ができていた。まるでアスファルトに強く擦り付けたような傷だ。いつの間に? 転んだ記憶はない。そして、傷口にはベッタリと湿った赤土が付着していた。
呆然としていると、スマートフォンの緊急速報が鳴り響いた。 『たった今、〇〇地区(俺が通ってきた道)の山側斜面で大規模な土砂崩れが発生。通行中の車数台が巻き込まれた模様』 テレビをつけると、現場の空撮映像が流れていた。俺がさっきまでいた道路は、完全に土砂に飲み込まれている。 あの「生暖かい風」は土砂が空気を押し出す風圧。「ズズ…ビチャ」という音は、崩れる土砂の音。そして、この腕の痛みと赤土は…。 俺は、間に合わなかったのだ。 既に土砂の下敷きになりながら、ただ「家に帰りたい」という一心だけで、ここまで戻ってきてしまったのだ。俺は、もう…。
      
      
      
      
  
  
  
  

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