お話
十年ぶりに「地元」へ帰省した私は、駅から実家へと続く懐かしい一本道を歩いていた。村の入り口には、深い渓谷に架かる古い鉄製の「橋」がある。子供の頃、祖母から「あの橋を渡る時は、絶対に途中で止まってはいけないよ。橋の真ん中は、あっちの世界とこっちの世界が一番近くなる場所だからね」と何度も言い聞かされていた。大人になった今では、そんな話も迷信だと笑い飛ばせる。
橋に差し掛かると、向こう岸から一人の老人が歩いてきた。近所に住んでいた田村さんだ。彼は昔と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、「おかえり。今日はいい天気で、お母さんも喜んでいるだろう。さっき庭でシーツを干しているのが見えたよ」と声をかけてくれた。私は立ち止まり、数分ほど懐かしい世間話に花を咲かせた。
田村さんと別れ、私は再び橋を渡り始めた。ふと横を見ると、橋の真ん中あたりで、向こう岸の実家の庭がよく見えた。確かに母が白いシーツを干していた。だが、その光景に妙な違和感を覚えた。母の動作が異常に速いのだ。まるで早送りの映像を見ているかのように、一瞬でシーツを広げ、次の瞬間にはもう家の中へ消えていった。私は不思議に思いながらも、実家の玄関へと急いだ。
「ただいま」と扉を開けると、母が驚いた顔で出迎えてくれた。「あら、連絡もなしに。でも、よく帰ってきたわね」。私は一息つきながら、「さっき橋で田村さんに会ったよ。お母さんが洗濯物を干してるのが見えたって言ってた」と話した。すると母は、青ざめた顔でこう言った。 「何言ってるの。田村さんは五年前の台風で、あの橋から転落して亡くなったじゃない。それに、今日は朝からずっと大雨よ。洗濯物なんて一枚も干してないわよ」 私は窓の外を見た。空は抜けるような青空だ。だが、私の靴の裏からは、一歩歩くごとに「グチャッ……グチャッ……」と、不自然なほど大量の泥水が溢れ出し、廊下を汚していた。
解説
真相は、主人公は橋の上で田村さん(幽霊)に呼び止められ、立ち止まった瞬間に「時間の流れが異なる異界」へ取り込まれてしまったというものです。 母の言葉により「現実は大雨」であることが分かりますが、主人公の視界は「晴天」です。これは主人公の認識がすでに現実と乖離している証拠です。また、庭の母が「早送り」に見えたのは、異界と現実の時間の進み方がズレているためです。


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