お話
会社の飲み会が長引き、深夜になってしまった。終電はもうない。私は結構な量のお酒を飲んでしまい、少しクラクラする頭でタクシーを拾おうと大通りに向かって歩いていた。
人気のない道端の電柱に、一人の酔っ払いが寄りかかっていた。スーツ姿の、人の良さそうなサラリーマン風の男性だ。 彼が私に気づき、申し訳なさそうに話しかけてきた。 「あー、お姉さん。ごめん、ちょっといいかな?」 「はい?」 「悪いんだけど、スマホ貸してくれない? さっきからカミさんに電話してるんだけど、俺の、電池切れちゃって。これ以上遅くなると本気で怒られるんだ」 彼はそう言って、画面の暗いスマホを私に見せた。かなりお酒臭いが、口調は丁寧だ。
深夜にスマホを貸すのは少し怖かったが、奥さんへの連絡なら仕方ない。私は少し距離を取り、カバンから自分のスマホを取り出した。 「ありがとうございます、助かります。えーっと…」 彼は私のスマホを受け取ると、電話番号を打ち込もうとする。だが、ひどく手が震えており、うまく画面をタッチできないようだ。 「…ダメだ、手が震えて番号が押せない。本当に本当に申し訳ないんだけど、代わりに押してもらえないかな? 090-XXXX-XXXX(11桁)です」 「あ、はい。いいですよ」
私は彼からスマホを受け取り直し、言われた番号を打ち込んで発信ボタンを押した。 コール音が数回鳴ったが、相手は電話に出なかった。 「…出ないみたいですね」 「ああ、そうか…。もう寝ちまったかな。すまないね、親切にしてもらったのに。本当にありがとう」 彼は何度も頭を下げ、私のスマホを受け取ると、おぼつかない足取りで夜道に消えていった。
私はホッとして、再び大通りに向かって歩き出した。 その時、ふと強烈な違和感が背筋を走った。
(あれ…?) さっきの男性の言葉が、妙にハッキリと耳に残っていた。
『手が震えて番号が押せない』
(…手が震えるほど泥酔してるのに) (なんで、あんなにハッキリとした口調で、奥さんの11桁の電話番号を、一言も間違えずにスラスラと暗唱できたんだろう…?)
解説
男は酔っ払いのフリをしていただけである。 彼の目的は、深夜に一人で歩いている女性(主人公)の電話番号を手に入れることだった。
「手が震えて番号が押せない」というのは、主人公に電話番号を打ち込ませ、発信させるための巧妙な演技である。 もし主人公が「番号を教えてくれれば、私の方でかけますよ」と申し出ても、男の目的は達成される。
男が告げた番号は「奥さんの番号」などではない。それは、男がポケットに隠し持っている「もう一台のスマホ」の番号だ。 主人公がその番号に発信した瞬間、男のもう一台のスマホには、主人公の電話番号が「着信履歴」として完璧に記録された。
「誰も出ない」のは当たり前である。男は、自分のポケットの中で鳴っているスマホを無視していただけなのだから。 これで男は、「深夜に一人で歩いており、かつ警戒心が薄く親切な女性」の電話番号を、安全かつ確実に入手したことになる。

コメント