お話
ひどく疲れていた。上司との些細な口論をいつまでも引きずってしまい、自己嫌悪で頭が重い。深夜、車を走らせる人気のない国道は、まるで自分だけが世界から取り残されたような気分にさせた。 「はぁ…なんか、罰でも当たったみたいだ」 重い溜息と共に、そう独りごちた。
ぼんやりとした意識の中、前方に歩道橋の暗い影が見えてくる。 その、真下を通過しようとした、まさにその瞬間。 黒い影が、視界の端で、歩道橋の上から落ちるのが見えた。 「えっ」 ブレーキを踏む時間もなかった。
ドンッ、という鈍い衝撃音。 だが、それは想像していたよりもずっと軽かった。 「うわっ!」 ハンドルは取られなかった。恐る恐るバックミラーを覗き込む。 だが、国道のアスファルトには何も見えない。 (今の、何だ…? カラス? それとも、誰かがゴミでも落としたのか?) 心臓が激しく鳴っていたが、車を停めて確認する勇気はなかった。 「…ゴミだ。きっと、大きなゴミ袋か何かだ」 私は自分にそう言い聞かせ、アクセルを踏み込んだ。
アパートに帰り着き、震える手で鍵を開ける。 シャワーを浴びようと服を脱いだ時、鏡に映った自分の体を見て、息を呑んだ。 左の肩から鎖骨にかけて、くっきりと紫色の痣が浮かび上がっていた。 (ああ…シートベルトか。あの時、そんなに強くブレーキ踏んでたんだ、私…) ホッと安堵したのも束の間、私はその痣から目が離せなくなった。
それは、シートベルトの線が作るような、一本の直線的な痣ではなかった。 まるで、小さな子どもが必死にしがみついてきたかのように。 五本の指の形が、くっきりと、私の鎖骨に刻まれていた。 私は、混乱したまま、その痣をただ見つめることしかできなかった。
解説
一見、疲れた主人公が、何かが落ちてきた衝撃(おそらくゴミ)で驚き、その際についたシートベルトの痣に怯えてしまう話に見える。 しかし、違和感は「五本指の形をした痣」。 真相は、主人公が歩道橋から落ちてきた「人間(子ども)」を撥ねてしまったということ。 「ドンッ」という軽い音は、衝撃が軽かったのではなく、撥ねた相手が「子ども」だったから。 主人公は、その事実から目をそらすため、無意識に「ゴミだ」と記憶をすり替えた。 しかし、撥ねた瞬間に、その子の霊(あるいは怨念)が主人公に「しがみついた」。 その「罰」として、シートベルトの位置に、決して消えることのない「手形の痣」が刻まれてしまった。主人公は、一生その罪から逃れられない。
      
      
      
      
  
  
  
  

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