お話
私が女手一つで娘を育てるこの古い団地は、家賃が安い分、あちこちが軋む。特に気になるのが、夜中に聞こえる床下からの「コツ…コツ…」という乾いた音だ。管理人に言っても「古いからねえ」と笑われるだけだった。
私の一番の宝物は、娘のリン。特に、床に届きそうなほど長く美しい黒髪は、私の自慢だった。私は毎晩、リンが眠る前に、その黒髪を丁寧に、心を込めて梳かしてやるのが日課だった。 そして、リンが寝付くと、枕元でそっと手を合わせる。 (この子が、ずっと健やかでいられますように…) それが、私の毎晩のささやかな祈りだった。
その夜も、私はリンの髪を梳かしていた。 床下で、また「コツ…コツ…」と音が鳴っている。 (またか…) 私が顔をしかめると、リンが鏡越しに私を見て、無邪気に言った。 「あ、また“コツコツさん”だ」 「…リン、知ってるの?」 「うん。いつも、お母さんが私の髪を梳かしてくれる時に、嬉しそうにしてるの」 私は、梳かす手を止めた。
「…嬉しそうって、どういうこと?」 「あのね、床の隙間から、いっつも“コツコツさん”が私のこと見てるの。それでね、お母さんがお祈りしてるとき、いつもこう言うんだよ」 リンは、鏡の前で、自分の喉を指差しながら、甲高い声色で真似てみせた。 「『はやく、その“かみ”を、よこせ』って」
私は、手に持っていた櫛を落とした。 混乱する頭で、必死に記憶をたどる。 先週、リンの部屋の畳を掃除した時、畳の隙間に詰まっていた、あの大量の見覚えのない「泥」と「抜け毛」のことを。
解説
一見、古い団地で娘を育てる母親の、少し不気味な日常の話に見える。 しかし、違和感は「娘が“コツコツさん”の言葉(早く髪をよこせ)を知っている」ことと、「母親が以前、畳の隙間に見覚えのない泥と抜け毛を見つけていた」こと。 真相は、「コツコツさん」はネズミなどではなく、この団地の床下に潜んで生活している「何か(人間、あるいはそれ以外)」だった。 その存在は、畳の隙間から毎晩リンの姿を覗き、彼女の美しい黒髪に異常な執着を抱いていた。「コツコツ」という音は、床下から天井(リンの部屋の床)を突く音。 母親が「祈って」いた間も、その存在は娘のすぐそば、文字通り「床下」で、娘の髪を狙っていた。 そして、畳の隙間の「泥」と「抜け毛」は、その存在が、母親がいない隙に、すでに一度リンの部屋に侵入していたことを示唆している。
      
      
      
      
  
  
  
  

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