お話
俺の妻は、最近少し、物忘れがひどくなった。 「あなた、今日って何日だっけ?」 「今日は土曜日だよ。さっきも言っただろ?」 「ごめんなさい…」 医者は、ストレスによる一時的なものだろう、と言うだけだった。俺は、妻が不安にならないよう、優しく接することを心掛けていた。
俺は、妻のために、大きなカレンダーをリビングにかけ、その日の予定を太いマジックで書き込むようにした。 「ああ、ありがとう。助かるわ」 妻は嬉しそうに笑った。 それでも、彼女は忘れてしまう。俺は、キッチンの壁に「今日は燃えるゴミの日」と書いたメモを貼った。
その日の夜。俺が仕事から帰ると、キッチンには朝出したはずのゴミ袋が、そのまま置かれていた。 「…ミキ、ゴミ出すの、忘れたのか?」 「え…? あ…ごめんなさい、私…」 まただ。俺はため息をついた。 「壁にメモ、貼っておいただろ?」 「メモ…?」 妻はキョトンとした顔で壁を見た。俺が今朝貼ったはずのメモが、なくなっていた。
(風で落ちたのか?) 俺は仕方なく、キッチンのゴミ箱を漁った。生ゴミに混じって、何か紙くずが手に触れた。 それは、俺が今朝書いた「今日は燃えるゴミの日」のメモだった。くしゃくしゃに丸められて、捨てられていた。
俺は、混乱した。 妻は「忘れた」のではない。「意図的に捨てた」…? なぜ? その時、俺はリビングのカレンダーに、見覚えのない印が付けられていることに気づいた。 俺が「出張」と書いた日の横にだけ、小さな、赤いハートマークが、繰り返し、繰り返し、びっしりと書き込まれていた。
解説
一見、物忘れがひどくなった妻と、それを善意で支える夫の話に見える。 しかし、違和感は「夫が貼ったメモが、ゴミ箱に捨てられていた」ことと、「夫の“出張”の日にだけ、妻がハートマークを付けていた」こと。 真相は、妻は物忘れなどしていない。彼女は夫から日常的にDVやモラハラを受けていた。 夫の「親切(メモやカレンダー)」は、彼女にとっては「支配」と「監視」の道具でしかなく、彼女は恐怖から、夫の命令(メモ)を必死で「捨てて」いた。 そして、夫が「出張」で家にいない日だけが、彼女にとって唯一「安全で幸福な日(ハートマーク)」だった。 主人公(夫)は、自分の行動が「善意」であると信じ込んでおり、妻がなぜ自分を恐れているのか、その理由にさえ気づいていない「信頼できない語り手(=加害者本人)」である。
      
      
      
      
  
  
  
  

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