お話
俺の妹は、事故で記憶の一部を失った。それ以来、彼女は毎晩、小さな鍵付きの日記をつけるようになった。 「お兄ちゃん、これだけは絶対に読まないでね」 そう言って、彼女はその小さな鍵をペンダントにして、首から下げていた。
ある日、妹が珍しく「友達と泊まってくる」と言って家を出た。 俺は、妹の部屋で、ふと机の上に置かれた例の日記帳に目を留めた。 (読まないでと言われると、読みたくなるのが人情だよな…) 俺は罪悪感を覚えつつも、彼女がいない今がチャンスだと思った。
だが、日記には鍵がかかっている。 (鍵は、あいつが持っていってる…) 諦めて部屋を出ようとした時、俺は洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、ハッとした。 鏡に映る、洗面台のコップ。その縁に、妹のペンダント(鍵)が、無造作に引っ掛けられている。 「バカなやつ! 鍵を忘れていくなんて!」
俺はほくそ笑み、その鍵を掴んで妹の部屋に戻った。 「さて、秘密の暴露だ」 俺は日記帳の鍵穴に、手に入れた鍵を差し込んだ。カチリ、と音はしたが、日記は開かない。 (あれ? 合わない…?) もう一度、強く差し込んで回してみる。だが、開かない。 なぜだ? これは、あいつが首から下げていた、唯一の鍵のはずだ。俺は、首を傾げながら、もう一度、洗面所の鏡の前に立った。 コップには、確かにペンダントが引っかかっていた。 俺は、鏡に映る自分の姿を、じっと見つめる。
…あれ? 俺は、いつから、「鏡の中に引っかかっている鍵」を、 「現実の鍵」だと、思い込んでいたんだ…?
解説
一見、妹の日記を読もうとする兄の、微笑ましい(?)日常の話に見える。 しかし、違和感は「主人公が“鏡の中”の鍵を、“現実の鍵”として手に取り、それを使おうとした」という、物理的にありえない行動。 真相は、主人公(兄)こそが、記憶障害(あるいは別の精神疾患)を抱えていた。 妹がつけていた日記は、事故で記憶を失った妹のものではなく、日々おかしな言動を繰り返す「兄」の行動を記録するための「観察日記」だった。 「読まないでね」という言葉は、「読んだらお前がショックを受けるから」という妹の優しさ(あるいは防御)だった。 主人公は、鏡の中の虚像と現実の区別がつかなくなり始めている自分の「病状」に、この瞬間、直面してしまった。


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