接待で使ったキャバクラ。騒がしい雰囲気に少し疲れ、一人で飲み直そうとカウンターに座った。すると、一人の女の子が「隣、いいですか?」と静かに座った。新人だろうか、派手さはなく、少し俯きがちな子だった。
彼女はミカと名乗った。左手首には、痛々しく包帯が巻かれている。あからさまなリストカット隠しだ。 「ごめんなさい、私、左手がちょっと不自由で…」 彼女はそう言って、おしぼりを右手だけで不器用に差し出した。 「あ、いや、気にしないで」 「こういうお店、苦手なんですけど、生活のために頑張らないと…」 彼女は無理に笑おうとして、すぐに俯いてしまった。俺は彼女の健気さに、少し同情的な気分になっていた。
グラスの氷が溶ける音だけが響く。彼女は無理に話そうとはせず、ただ静かにそこにいた。 「…お客さんみたいに、静かに飲んでくれる人だと、安心します」 彼女はそう言って、ふと顔を上げた。 「あ、灰皿、いっぱいですね。替えてきます」 彼女が灰皿を掴もうと立ち上がった、その時。不意にバランスを崩し、俺のグラスに彼女の左手が当たった。 「あっ、ごめんなさい!」 グラスが倒れ、俺のズボンが濡れる。それと同時に、彼女の左手の包帯が衝撃で緩み、ハラリと床に落ちた。
「本当にごめんなさい! 怪我は…」 「いや、大丈夫。それより君の手…」 俺は言葉を失った。 彼女が隠していた左手首。そこには確かに無数の傷跡があった。だが、それらはすべて、完全に治癒し、白く変色した「古い傷」だった。 「あ…」 彼女は慌てて手首を隠し、落ちた包帯を拾おうと屈んだ。 俺は濡れたズボンをハンカチで拭きながら、違和感に襲われた。
(あれ…?) (「古い傷」…だよな?)
(だとしたら、なんで彼女は…) (「左手が不自由」だなんて言ったんだ…?)
(「リストカット」の跡が痛むことなんて、ないはずだ。手首の機能にも、関係ない) (なのになぜ、あんなに不器用なフリを…?)
解説
彼女は「リストカット」の跡を隠していたのではない。むしろ、それを「利用」していた。
彼女の目的は、客の同情を引き、指名やドリンクを得ること。 そのために、彼女は「今もまだ心が傷ついている、薄幸で健気な女の子」というキャラクターを演じていた。
「古い傷跡」をあえて「今も痛む怪我」のように包帯で大げさに隠し、「左手が不自由だ」と嘘をつく。 そして、おしぼりを不器用に右手だけで渡したり、客に「親切」にしようとして失敗したりする姿を見せる。 これらはすべて、「庇護欲」を掻き立てるための計算された演技である。
主人公が「同情的な気分」になった時点で、彼女の策略は成功していた。 グラスを倒したのも、もしかしたら「偶然」ではなく、加護欲を掻き立てる最後のダメ押しだったのかもしれない。


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